「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」
越後湯沢を舞台にした、小説、雪国の書き出しに出てくる有名なフレーズです。
このフレーズ、耳にしたことのある方も多いのではないのでしょうか?
越後湯沢は、北陸でも有数の温泉町で、多くの湯治客の方に親しまれています。
そして、その中にはノーベル文学賞の受賞者でもある、文豪・川端康成もいました。
彼は越後湯沢に滞在して、湯沢を舞台とした名作を書き上げました。それが、小説「雪国」です。
昭和9年の秋から、昭和12年まで約3年の歳月をかけて執筆された雪国は、冒頭で紹介したフレーズを含め、川端康成の名を不動のものにしました。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」というトンネルも、現存しています。
今回は越後湯沢に縁の深い川端康成という人物について、簡単に調べてみました。
不幸な生い立ちの影にあった文学への才能
画像引用:wikipediaより
川端康成は、明治32年に大阪の地で生を受けました。
幼いころに父、母、祖母、姉を亡くし、唯一の肉親である祖父とも15歳の時に死別。
中学生の時に文学の道を志します。
小説家の夢を抱きつつも、第一高等学校、東京帝国大学と進学していった川端は、様々な出会いと別れを経験します。
伊豆に旅行をした際、道連れになった旅芸人一座との心温まる触れ合いは、彼の不幸な生い立ちが残した影響を、癒やしてくれるものでした。
このときの経験が、のちに、「伊豆の踊子」の物語となって結実するのです。
また、大学在学時には、伊藤初代という女性と出会い、将来を誓い合います。
画像引用:wikipediaより。1919年(13歳) 本郷弓町の坪井写真館にて
しかし間もなく破談となり、そのショックは川端文学に強い影響を残していくのです。
さらに関東大震災に遭い、作家としてデビューするも長らく振るわず、苦しい月日が流れていきました。
その後、徐々に頭角を現し、昭和8年には伊豆の踊子が映画化するなど、流行作家としての道を歩き始めました。
その活躍は戦争という激しい時代の流れを経ても変わることなく、昭和34年にはフランクフルト市からゲーテ・メダルを贈られるなど、国際的作家としても知られるようになります。
そしてついに、昭和43年のノーベル文学賞受賞へと至ったのです。
川端康成という人物をもっと詳しく知れる関連施設
川端康成の描いた「雪国」は越後湯沢の知名度をグンとあげてくれました。
そんな文豪も愛した越後湯沢の温泉につかりつつ、文学に思いを馳せるのも、旅の楽しみといえるでしょう。
越後湯沢の温泉街で一人の芸者と出会ったのをキッカケに生まれた物語の軌跡を辿るのもいいですね。
今回は簡単な生い立ちのご紹介でしたが、もっと詳しく知りたいという方は、湯沢の各地に川端康成にゆかりのある場所がありますのでチェックしてみてくださいね↓
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